8月のお便りに添えて



 
  
 



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  1946年、終戦の翌年、4歳の私と2歳の弟は両親に連れられて、それまで暮らしていた
  満州の家を出ました。ロシア軍が攻めて来るとの知らせがあったのです。

  前の日まで白いご飯を食べて贅沢な暮らしをしていました。父はまた戻って来られると
  思ったのでしょう、想い出のある品を庭に埋めました。お雛様、大切な写真…幼い私は
  じっと見ていました。あの品々は今は土に還っているでしょう。

  背負ったリュックサックに鍋窯をぶらさげ、その上にゴザを載せた両親の後姿は、今も
  はっきり覚えています。絶対離さないように言われた弟の小さな手を、しっかりと握り、
  父の背中を…背中のリュックを見失わないように、はぐれないように一心に歩きました。
  泣き虫の弟はピーピー泣きながら、それでも歩いてくれました。

  引き揚げる人たちは、幾つかのグループに分かれて行動していました。
  汽車に乗るまでは、夜は野宿、たまに屋根のある所…講堂のような所で寝泊まりした
  覚えがあります。野宿の時は皆で丸く一塊になって、寝たり休んだリしました。

  朝、目を覚ますと亡くなっている方があります。皆、悲しむことも出来ず、穴を掘って
  埋めました。埋めることが出来ないこともありました。無残な有様は幼かった私の眼に
  今も残って忘れられません。

  汽車に乗れる所は遠く、何日も何日も、黙々と歩きました。
  同じグループで歩いていた女の子の姿が、途中で見えなくなったことがあります。
  ”ねえ、お母ちゃん、女の子どうしたの?”と聞くと、母は”ホントだね”と言うだけで、
  教えてくれませんでした。

  戦後、残留孤児の肉親捜しの訪日調査が始まった1981年頃になって、”あの女の子は
  中国人になったのよ”と、母は教えてくれました。飢えて死ぬことと生が隣り合わせ
  だったあの時の、女の子のお母さんの気持は、誰も言葉に出来ないでしょう。

  何日も歩いて、やっと汽車に乗り、場所は定かではありませんが、日本へ向かう船に
  乗ることが出来ました。父は山形出身ですが母は満州生まれ、母も私も弟も初めての
  帰国でした。父の故郷の山形へ帰れることが分かって、幼いながらも安堵したことを、
  今も忘れることが出来ません。

  舞鶴までの船の中で、父は私を抱き上げて、イルカの泳ぐ姿を見せてくれました。
  何十匹もが船と一緒に泳いでいます。その光景は、今も脳裏を離れません。
  
  4歳の時の想い出です。
  あれから74年。原爆忌に黙祷を捧げながら、ふと涙がこぼれました。

                          2019 8/6  石原汎美

 


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