関西と関東・橋渡し文化人類学

西

に生まれて西に住んで〜

東京阪神間 6頁目



@吉田屋

Aあづま女
B沢村貞子さん

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関西と関東の違いを
37年間 関西に暮らした 東京っ子が
独特の角度から検証!

 


執筆者はこんな人







 @ 


食事が終る。

“クスリのまなイカンなぁ”

爪楊枝を使いながら、ご主人が言う。
奥さんがスッと立って、水を運んでくる。
ご主人が薬を口に含む。奥さんがコップの水を差し出す。


“関西のオウチって、そんなふうよね…”と友人に言ったら、
“ウチはチャウ”という答が返ってきた。「チャウ=違う」、彼の東京人の奥さんは
“そうねぇ”と坐ったまま動かない。“ちょうだい”と言わないと水も出てこないそう。
“クスリいうたら水やろ、わかっとるのにイケズしよんねん…”

  「イケズ=いじわる」漢字の「意地悪」より、やや軽い。

こういうとき関西の男性は、畳に「のノ字」でも書きそうな喋り方をする。
これって甘えてるんだろうか? 私に甘えられても困ってしまう…


少し前、歌舞伎座で上方和事の代表作「廓文章・吉田屋」を見た。

舞台は大阪新町、正月近い遊郭の店先。
花道から出てくるのは藤屋の若旦那、伊左衛門。
勘当されて落ちぶれて、継ぎはぎの紙子姿の、ホームレスまがい。
編笠に顔を隠して、馴染みの遊女の夕霧のいる吉田屋の店先をのぞきこむ。
夕霧に会いたいが、堂々と入るにはお金が無い。うろうろして店の者に追い払われたり
しているうちに、出てきた主人が顔パスで入れてくれる。

この伊左衛門さん、「うろうろ」しっぷりが半端でない。
花道では、ふ〜らり、ふ〜らりと、目的地が無いみたいな歩き方。店先では蝶々みたいに
あっちへ行き、こっちへ行き、“入れてほしィねんけどなァ〜”と、口でこそ言わないが
ありったけのボディランゲージで延々とデモストレーションする。

さて、座敷に通されたものの、夕霧は他の客の相手をしていて、なかなか来ない。
待ちくたびれた伊左衛門は、すっかりスネてしまう。やっと会えたのに、ふくれっ面…
寝た振りをしたり、そっぽを向いたり、はては炬燵の上に座り込んだり…と、子どもの
ように駄々をこねて夕霧を困らせる。

伊左衛門を演じたのは四代目坂田藤十郎襲名を目前に控えた鴈治郎。
お雛様のような美男が、炬燵の上にチョコンと坐って、ぷうっと頬をふくらませてスネて
見せたりするのは、今風に言えば、カワユ〜イ…というところなんだろうか。
しかし、これが色気とは、東京育ちの私には些か理解し難い。
そりゃあ鴈治郎ですもの、きれいではありますけどネ…

遊女夕霧は雀右衛門。
伊左衛門に会えない悲しさから病気になって、紫の病鉢巻をしている。
病気の人をそんなに困らせるなんて、可哀想じゃないの…と思うのは余計なお世話で、
どうやら夕霧さんは、伊左衛門が甘ったれるのがイヤでない…というか、困惑しながら
楽しんでいるように見える。これまた東京育ちの私には理解し難い。


関西には「甘える」という文化がある。
誰もが持つ「甘えたい気持」を禁じてしまうのなく小出しにして、小鳥が止まり木で休む
ように、小まめに凭れあってストレスを癒している感じ。あれは東京には無い。
凭れあう二人が男女の場合、経済的にはともかく精神的には、男性が女性に凭れる場合が
圧倒的に多いように見えるのも、東京には無い風景だろうか。
これは「見える」のであって実態は定かでない。

凭れすぎると“おばはん、たよりにしてまっせ”で、森繁久弥演ずる所の「夫婦善哉」の
世界になる。映画の淡島千景はほっそりしていたが、織田作之助の原作の蝶子は、数々の
苦労もかかわらず、ラストでは「座布団が尻にかくれるくらゐ」に肥えて元気そうだ。

関西の女性ってタフなんだろうか?
しかし仮に、どんなに関西の女性がタフだったとしても、人は何れ齢をとる。
椅子から立ちあがるのも億劫なお婆さんになった時に、男性の“クスリのまなイカン”の
一言で女性が水を運んでくるシステムは、女性にとってシンドイものになるだろう。
体がついてこないときが、蝶子さんにも来るのではないだろうか。

“なが〜い先を考えれば、イケズとチャウかもよ…”

のノ字を書いてボヤいている友人に言ってあげよう。



東京人は甘えてはいけないと思っている。
他人様に御迷惑をおかけしてはならない…凭れあうなんて、とんでもないことだ。
東京人は独りで頑張ろうとする。東京人の口を開かせるには、関西人の場合の三倍くらい
時間がかかると、知り合いのカウンセラーが嘆いていた。






 A 
あづま

“聞かんとくれやっしゃ…言うたら悪口になりまっさかい”

 …という言い方が、関西にある。

“私に聞かないで下さい。その件についてお答えすれば、私は悪口を言うことになります
から”という意味だが、しかし、こう答えた場合、そのまま口を噤んでしまう関西人は、
まず居ない。例を挙げよう。最近はこのようなベタベタの関西弁で話す人は少ないので、
現代風の言い回しに変えてご披露させて頂く。


“あのぅ…「東と西」に友人の奥さんって出てこられますよね。
 あの方って、どんな方ですのん?”

“いやぁ〜、そんなん、ワタシに聞かんといてホシィなぁ…、
 あんまり悪口みたいなこと、言われしまへんし…”


“そんなヤヤコシィお方ですのん?”

“いや…ヤヤコシィなんて、そんなことありまへんねんけど…
 エエお人ですよ。カシコイし。ただ…”

“ただ?”

“いやぁ…言われへん…カンニンして”

“そんな、言いかけてやめたら気になりますやないの”


“いや、ちょっと…変わったはるかなぁ…

 ご主人が何か言われますやろ、少しくらいオカシィても、
 ‘ハァハァ’いうて適当に受け流しておきはったらエエのに、
 真っ向から‘チガウでしょ’みたいな事いうて言い返しはりまんの。
 キツイなぁ〜思て…

 東京の人って、あんなんでっしゃろか?
 ご主人、優しいから、よう辛抱したはりますけど、
 あれはカナンのとちがいますやろか…

 あ、イランこと言うてしもた。
 聞かんかったことにしといてくれはります?…お願い”


…というふうに使う。

友人の奥さんには申し訳ないが、たしかに東京の女性には、いなす(去なす)というか、
たい(体)を捻って受け流す器用さを持ち合わせない人が多い。真っ向から受けて立つ。
巌流島の小次郎みたいだ。駆け引きが出来ない。まぁ人によるけど。

言葉で遊ぶ習慣が無いのが、それに輪をかける。
東京にも、江戸以来の言葉遊びはある。けれど、多くは「シャレ」など、独り遊びだ。
関西のような「言葉のキャッチボール」を楽しむシステムは確立されていない気がする。

友人の奥さんは、ご亭主にお茶を淹れてあげたら“おまえワシを殺す気か?”と言われて
飛び上がった。お茶が熱すぎたのだという。あまりの言い方に“ナンてこと言うの!”と
青くなって抗議したそうだが、これも言葉の遊びで、対句がある。
“コロセルもんなら、とっくにコロシテルわ”と答えるのだと、私は、芦屋でお育ちの
セレブな奥様から、ご教示に預かった。

でもコレって、柔らかな関西弁で言ってこそシャレになるので、頭にアクセントのついた
東京弁で、こんなことを言い合っていたら、警察が飛んでくるのではないかしら。

そういえば、お茶碗を割って“ごめんなさい”と謝ると、
とっさに返ってくる言葉が“ゴメンで済んだらケイサツいらん!”

最初はビックリした友人の奥さんも、、最近では余裕で
“お茶碗一つでケイサツ呼ぶンかいなぁ〜、物凄いナァ”と返してるそうだから、
生真面目な彼女の人生にも楽しみが出来たのではないかしら。まずは目出度い。



今回は、皆様に音読して差し上げられないのが残念です。
関西弁のセリフ、東京の方は口元の力を抜いて、フワンと読んで下さい。
さて、お次は…






“関西は古いけど、東京は…”とか言うセリフ、聞いたことありませんか?
今回は、浅草生まれの女優、沢村貞子さんのお話です。


 B 
沢村貞子さん

          

            今回だけ特別、とても長くなりました。

            目の疲れやすい方は、文章部分だけを選択して、
            プリントアウトして御覧頂けると、少し楽です。

           ★ プリントする場合は、文字がハミ出ないために、

            @用紙に「A4・縦」ご使用の場合は、文字サイズを「小」に
            A文字を「中」にする場合は用紙を「A4・横」に、して下さい。



NHK朝のドラマ「おていちゃん」の原作者。
「隣りの芝生」の姑役でおぼえておられる方もあろう。

この方の随筆を、私は全部読んでいる。

女優としては、最初は好きでなかった。
ご本人も書いているように、目を剥いたり口を歪めたり、変に体を傾ける動作が
気になることがあって、後に言われた「名脇役」という評価からは程遠い、
どちらかといえば不器用な女優さんという印象を、私は持っていた。

それが、ある時期から変わった。
演技から余分なものが削ぎ落とされて、スッキリとした印象になった。
1980年NHK大河ドラマ「獅子の時代」に於ける、苅谷和哥の演技は忘れがたい。

随筆には、初めて読んだときから心を惹かれた。
11冊の随筆と、秘書の山崎洋子氏の著作「沢村貞子という人」を通して、私はこの方に、
沢村貞子さんとお呼びしたい敬愛の念を抱いているが、ここでは文章の性格上、
登場する全ての方々への敬称を、省かせて頂いた。

まずは、略歴を御覧頂きたい。




〜略歴〜

沢村(大橋)貞子    

女優:1908年東京市浅草区生。

父は浅草宮戸座の座付き狂言作者。
兄は、女形から映画に転じて一世を風靡した俳優の沢村国太郎。
弟は、芝居の名子役から映画俳優となり、達者な演技で知られた加東大介。


幼いころから母の家事を手伝い、8歳から弟の付き人も務めるが、向学心止みがたく、
家庭教師で学資を得て第一高女(現・白鴎高校)を経て日本女子大師範家政学部へ進学。
在学中に山本安英と出会い、築地小劇場から分裂した左派の新築地劇団の研究生となる。

このことが知れて大学を退学。左傾化を深めた劇団でプロレタリア運動に参加する。
組織上部からの命令により、左翼劇場の書記長の今村重雄と結婚。

活動中に逮捕され、結束を守って否認を続け、1年8ヶ月を獄中で過ごす。
逮捕の切っ掛けが、同志である「夫」の自白であったことを知り、転向する。
兄・沢村国太郎の世話で日活太秦現代劇部へ入社。映画女優となる。


1946年、戦後の京都で、都新聞の文化部記者、大橋恭彦(1910年京都市生)と出会う。
二人にはそれぞれ、別居中ではあったが配偶者が居た。
貞子は間もなく自由の身となり、全てを捨てて上京した恭彦と所帯を持つ。

その後、22年にわたる送金に加え、更に慰謝料を払って、先妻との離婚が成立。
1968年、二人は法律上も、夫婦となる。

 その間、恭彦は共立通信社を設立、「週間共同通信」及び、「映画芸術」を主宰。
 1965年「溝口健二の人と芸術」(依田義賢・著)の出版により毎日出版文化賞を受賞。
 評論と出版活動は専門家を中心に高く評価されるが、経営は莫大な赤字を出し続ける。
 更に、内部の人間の裏切りに遭って、断腸の念をもって会社を手放した恭彦は、
 花森安治から提供された「暮らしの手帖」の「テレビ注文帖」に執筆の場を移す。

1956年、映画「赤線地帯」で毎日映画コンクール女優助演賞を受賞。
1977年、自伝的随筆「私の浅草」で第25回・日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。

1989年、「女優業の店じまい」を決意。
1990年、二人は40年の間住みなれた代々木上原の家から、
    葉山の「海の見えるマンション」に居を移す。
1994年、恭彦逝去。

1996年、日本アカデミー賞・会長特別賞を受賞。
同8月 逝去。



  ★★★ さて…、ここから本文です ★★★



二人が所帯を持ったとき、貞子は言う。

 “これからは、ずっと、二人で暮らすのだから、
  おたがいの収入は、一つ壷に投げいれましょうね、
  必要なものは、その中から貰うことにして……。
  ただ、私は数字に弱いから、その壷はあなたが管理して下さいな、
  面倒で悪いけれど……”

お蔭で五十年間、家事以外の家のことは何ひとつ知らなかった。
自分は「楽チン」だった…と貞子は、随筆「老いの道づれ」に書いている。
しかし、恭彦の事業の赤字は「筆一本の批評家」としての収入を上回った。
先妻への送金、共立通信社の設立に関わる訴訟沙汰、「映画芸術」の莫大な赤字の穴埋め
のために掛け持ちで働く貞子の出演作品は、多いときは年に30本、月に7本にもなった。

 “まあ、それでもいいじゃないの、なんて言ったって、君のところじゃ、
  奥さんがじゃんじゃん稼ぐんだから、安心して仕事ができるってわけだ、
  けっこう、けっこう”

などと慰める人間がいて、恭彦のプライドの高さを知る貞子は心を傷める。

 “(気をつけなければ……)とは思うものの、いまは、とにかく、
  私が稼がなければ、あなたの仕事は始まらないし……。
  明治もの同士、誇り高い京男と、尽くし型の東女…つくづくむずかしい、と
  あの晩、いつまでも眠れませんでした”


普段に履くサンダルも、自分のものが玄関の真ん中にキチンと揃えて置かれていないと
眉を顰める恭彦に対して、貞子は「できるだけ、あなたの気持に添うように」心を配る。
心遣いが積み重なって、朝日新聞の中島信吾が後に「沢村貞子・波乱の生涯」に書いた
「大橋家では、恭彦さんの一存で、すべてが決まるのでした」という状況が出来上がる。



仕事についても貞子は、すべて恭彦の意向に従った。32年間秘書を務め、最後まで貞子を
見守った山崎洋子が、著書「沢村貞子という人」(新潮社2004年初版)に書いている。

  仕事を受けるか、ことわるか、すべて御主人の大橋恭彦さんの許可がいる。
  大橋さんは簡単に、やめとこう、で済むが、こちらはそうはいかない。

  沢村さんから、ヒソヒソ声で電話が入る。
  “ダンナは今お風呂なんだけどね、
   どうしてもあの仕事駄目だっていうのよ。
   あなたもう一度話してみてよ”

コマーシャルは駄目、「こんな、くだらないもの」は駄目、二泊以上のロケは駄目…が、
恭彦が年をとるとともに、泊まりの仕事は駄目、舞台は駄目…となる。


ある時、関西のテレビ局から「泊まりの仕事をなさらないのは承知」の上で、
読むだけでもと台本が送られてきた。

 出演者二人だけの、めったにない、すばらしい台本と役だ。
 たった三日程だが、大橋さんはいいよと言わない。
 しまいには、黙って、ものを言わなくなる。

許可は出なかった。ドラマは他の女優によって演じられ、貞子は山崎に言う。

  “寝室の小さなテレビでみたの。やりたかったわ”



1989年、身体能力に限界を感じた貞子は、60年に及ぶ女優業の「店じまい」を決める。
少し前に恭彦も執筆活動を止め、翌年、二人は葉山の「海の見えるマンション」に移る。
恭彦は相変わらずの殿様ぶりだが、体の衰えた貞子に代わって、食器を洗うようになる。

ここで、二人は「二人の五十年史を、かわるがわるで」書くことを思い立つ。
第一稿を遺して恭彦が亡くなった後、貞子によって書き上げられた「老いの道づれ」は、
もう一つ、恭彦が遺していた「別れの言葉」を添えて、1995年に出版された。

一人になった貞子の文章には、それまでの随筆のキリリシャンとした印象とは、どこか
違う、「おのろけ」とでも言いたいような、やわらかな雰囲気が漂う。



下町育ちの自分は夫を立てるのが好き…と貞子は書いているが、それだけだろうか?
それも含んで、こうまで「夫を立てる」ことを貫いた人生は、恭彦との結婚生活を全う
するための、貞子の「心を込めた一世一代の演技」だったのではないかと、私は考える。

  “明治もの同士、誇り高い京男と、尽くし型の東女…つくづくむずかしい…”

恭彦の乗り越えられる限界を、見定めながら貞子は、生きたのではないだろうか。
恭彦もまた、その心遣いを知った上で、貞子の「演技」に付き合ったのではなかったか。



明治もの同士…と貞子は書いているが、実は、明治生まれに限らない。京男と東女だけの
問題でもない。同じような「むずかしさ」を抱えた家庭は、東か西かという区分を越え、
年代を超えて、今も日本中にあるが、歴史が作ったそのような状況は、魚に水が見えない
ように、案外と意識されていない。

心から…または心ならずも、意識して…または無意識で、家族の中で「演技」をしている
女性は、男女同権と言われる今も、日本中に沢山いる。そのことを書きたかったけれど、
例えば…と書けば、精一杯に生きている人たちのプライバシーに、踏み込むことになる。
沢村貞子さんの生涯について書くことで、皆さんに私の思いを伝えたかった。


山田太一脚本NHK大河ドラマ「獅子の時代」の苅谷和哥…息子嘉顕(加藤剛)の出世を
遠く見守りつつ薩摩に留まる母…の凛とした姿は、26年を経た今も、私の目に浮かぶ。
沢村貞子さんに、もっと自由に仕事をしてほしかったと、私は思う。




マジメーな長文に、お付き合い下さって、ありがとうございました。
こんどは短いのにしますので、ご安心を!


文中の引用は、次の三冊によります。

沢村貞子・著「老いの道づれ」(1995年・岩波書店)
中島信吾・著「沢村貞子 波乱の生涯」(1997年・岩波書店)
山崎洋子・著「沢村貞子という人」(2004年・新潮社)




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