〜堀江はるよの音楽・作曲その周辺〜


CD「鶴によせて」


2012年

「鶴によせて」
〜作曲しながら考えたこと〜





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その一

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その四

その五

その六
 
 

 鶴によせて  
   その一  


新しい曲「鶴によせて」(リコーダー&ピアノ)の清書を終えた。
私はこれまでに同じ題材で、ギター合奏曲と、篠笛と琵琶の曲を書いている。
これで鶴の曲は三作目になるが、音はもちろんのこと、内容も微妙に違う。

音を選ぶのは、そんなに難しくない。
簡単ではないけれど、時間をかければ「自分が欲しい音」に辿りつける。
難しいのは、曲にこめられた自分の想いを言葉にすることで、そういう必要が
生じると、言葉に出来ないからこそ音で書いているのだから、困ってしまう。

特に今回のようなドラマになっている曲は、譜面がいわば脚本の役割をするので、
演じる人が困らないだけの説明が必要になる。作曲者である私は映画監督が俳優に
説明するように、作品の意図するところや、それぞれの部分の持つ意味を、明快に
言葉にしなければならない。例えば一曲目「雪」に、私はこんな言葉を添えた。

T「雪」 山あいの村 雪空に鶴の群れが飛ぶ
     次第に激しさを増す雪
     やがて一羽を残して 群れは去る

映画でいえばタイトルへの導入のような数小節があって、雪空を表すピアノに
重ねてリコーダーが、啼き交わしながら飛ぶ鶴の群れを描き出す

     *     *     *

民話では、怪我をしたツルが、助けてもらった恩返しに、人に姿を変えて若者の妻に
なるのだけれど、この曲に若者は登場しない。一曲目を書き終えた時点で、そういう
ふうに書いては何かが違ってしまう…と感じた。私が書きたいのは恩返しの話でも、
若者の妻であり続けられなかったツルの話でもない。
若者とツルの出会いが無くて、いったいどうやってドラマが成り立つのだろうかと、
不安ではあったけれど、私は自分の感覚に従うことにした。


                             2012.11.20

   その二  


二曲目の「春」の出だしのメロディーを書き終えて戸惑った。
何というか…大人しすぎて主張が無い。これで良いのだろうか?

けれど、他のメロディーに換えようとすると、曲が“イヤだ”と言う。
半月もの間、あれこれしながら様子をみたが、このメロディー、主張が無い割には
頑固で、断固として取り換えに応じない。仕方がないので、取りあえずそのままに
して先を書くことにした。

     *     *     *

ピアノが繰り返す音形が、畑を耕す人たちを描写する。
リコーダーが、小鳥の囀りを重ねる。
燦々と降りそそぐ陽光。歓びに満ちた村の様子。
小鳥が、嬉しくてたまらないように一声囀って、曲は終わる。

     *     *     *

話を戻そう。
出だしのメロディーは、村の女になったツルを描いている。
姿は人、けれど見る人は「何かが違う」と思う。ツルはそれに気づいていない。
ああそうか…と、暫くして気がついた。これは「狐忠信」」だ。

歌舞伎の演目の一つ、義経千本桜には、子ギツネが登場する。
母ギツネは捕えられて鼓にされてしまった。子ギツネは母を追って、義経の家来
佐藤忠信に姿を変え、鼓の持ち主である静御前の前に現れる。姿は侍、実は狐。
役者は「狐ことば」や「狐手」という、人らしからぬ物言いや身振りを交えて、
これを演じる。

このメロディーも、そういう方法で演じられることを望んでいるのではないか。
鶴が歩む様に似せて、狐手ならぬ「鶴足」で「レ/ミ・ファーラ・シ/ミ・シー」と
途切れとぎれに吹くように、スタッカートやスラーで指示しよう。 
そうすれば、村の道を歩くツルの、おずおずとした姿が浮かび上がってくる。
そうか…だからこのメロディーは大人しかったので、それで良かったのだ。
主張があったら「自信に満ちたツル」になってしまう。

     *     *     *

音は確信を持って選ぶ。けれど自分が何を言いたくてその音を選んだのかが、私は
なかなか言語化出来ない。出来ない程度は“うまく言えないけど、おおよそこんな
こと”というレベルから、“何を言いたいのか、自分でも分からない”まで様々。
組曲「こどものとき」の中の一曲などは、完成して2年もしてから“はぁ…これが
言いたかったのか”と分かった。

CDになってから“え〜そんなこと言っちゃってたの!”と気づいたこともある。
巫女さんのご宣託のようなもので、音は知覚を介さずに五線の上に降ってくる。
結果として私は、文章になら決して書かないだろう「ほんとのこと」を、音楽を
通して喋ってしまう。良いのか、悪いのか。

そうだ、もしも見咎められたら、“そんなことは、書いてません”と言おう。
作曲者本人が言うのですから、これはもう間違いありません。

それはともかく、この曲に私は、幸せな村の女になろうとしているツルを描いた。


                             2012.12.18



   その三  


三曲目は「夜道」。

前の二曲はソプラノ・リコーダーだったが、ここはバス・リコーダー、無伴奏。
ぶきっちょなファゴット…という感じのこの楽器は、芝居で言えば性格俳優。
変則的な吹き方をすることで、様々な「味のある音」を作り出すことができる。

     *     *     *

夜道という言葉から、私の心に浮かぶものが二つある。

一つは幼い日の祭り夜。
近所の空き地から聞こえてくる笛や太鼓の音に気もそぞろ。
夕食の終わるのを待ちかねて、浴衣の短い袂をひるがえして夜道を急いだ。

もう一つは40才を過ぎてから。
引越し先の集合住宅にピアノを持ち込めなくて、電車と徒歩で30分ほど離れた
仕事場と家を、毎日往復するようになった。時間ぎりぎりまで五線紙に向かって、
帰りに買物して、馬鈴薯や牛乳パックの入ったリュックを背に、ネギや菜っ葉を
ぶら下げて家の近くまでくる頃には暗くなる。ぽつんぽつんと立つ水銀灯の下を
歩きながら、誰が欲しがるわけでもないのに「堀江はるよの音楽」に拘り続ける
自分の、望むことと現状とのギャップに、こんなことをして何になるのだろう…
と思うこともあった。


私にとって、夜道は「二つのものを繋ぐトンネル」なのかもしれない。
この曲の夜道も、日常と非日常、ケとハレを繋ぐトンネルとして描かれている。
村から鎮守の森へ続く道を、村人達は提灯を連ねて賑やかに通って行った。
ツルは遅れて同じ道を、自分の持つ灯りだけを頼りに一人で歩く。
昔の夜は暗い。重い質感を持った闇が、ツルを包む。。

笛や太鼓の音が次第に近くなる。篝火を囲む村人の輪に加わるツル。
炎に照らされたツルに、行者が近寄って異様な声を投げかける。驚くツル。

     *     *     *

ここで使われる特殊奏法(変則的な吹き方)の選択は、演奏者に委ねた。

この「鶴によせて」を、私はリコーダー奏者の江ア浩司さんのために作曲した。
素晴らしい演奏テクニックにも増して、私は彼の「音楽を演じる人」としての
豊かなイマジネーション、楽譜に託されたあらゆる要求を読み解いて過不足なく
演奏に反映させる繊細なセンスと判断力を買っている。

そして言うまでも無く、リコーダーという楽器については、江アさんの方が私より
知っている。この曲でバス・リコーダーという性格俳優にどんな演技をさせるか、
その選択は江アさんに任せようと、私は考えた。 


この文章を書いている今日、東京は大雪、牡丹雪が舞っている。


                             2013.1.14



   その四  


この曲を私は最初、チェンバロで伴奏するように書くつもりだった。
それをピアノに変更したのは、私にとっての母国語で作曲したくなったから。

初めて「つるの恩がえし」を読んだのは小学校のとき。
木下順二の「蛙昇天」と共に「夕鶴」を読んだのが中学のとき。
そのうち世の中で女性の生き方について、翔ぶという言葉が使われるようになり、
作曲に復帰した私は、曲げられない自分を生きるために苦闘する若者たちに出会った。
その間、私はこの「めでたしめでたしで終わらない物語」について考え続けてきた。

この曲を書き進める中で、私はやっと、答のようなものを見つけた。
それを音にするには、幼い頃からの道連れのピアノという楽器が必要だった。


リコーダーとピアノのデュオを心地良いものにするには、多少の工夫が必要だ。
最近多い444のピッチはリコーダーには高すぎるので、441〜2が望ましい。
響きは欲しいので、グランドピアノの場合も蓋は少し開けておくのが好ましく、
その分、タッチは柔らかく、カラフルな表情を持ちながらも、音量は抑えたい。
楽譜にフォルテと書いてあっても、それは「フォルテを表現してほしい」ので、
単純に大きな音を出してほしいのではないということを、他の楽器と合わせる
とき以上に考えて頂きたい。

けれど、そういうことをクリアすれば、ピアノは豊かな世界を開いてくれる。
センスあるピアニストさんたちに期待して、私はこの曲を書いた。


チェンバロのための作品の多くが、現代ではピアノでも演奏されている。
同様にこの作品も、的確な演奏によって、リコーダーとチェンバロの曲としても
聞いて頂くことができる。チェンバリストさんも関心を持って下さったら嬉しい。

     *     *     *

4曲目の「想い」は、ピアノソロ。
即興曲のように、楽器に心を委ねて一気に書いたら、そのままチェンバロでも
演奏できる曲になった。もしかするとチェンバロは私にとって、第二の母国語に
なりつつあるのかもしれない。

行者の声に、一瞬心を開かれて、ツルの感情がほとばしり出る。


                             2013.2.15




   その五  


5曲目は「笛の音」。楽器はソプラニーノ。

闇の中に黒々と立つ大木。梢から不思議な笛の音が聞えてくる。

祭という非日常の中で、ツルに与えられた啓示。
笛を吹いているのは、ツルの心に封じ込められていた魔物。
行者の声で解き放たれた魔物は、梢の闇からツルに語りかける。
笛の音が、ツルの心に残る。


6曲目は「はたを織る」。楽器はアルト・リコーダー。

日常に戻って機(はた)を織るツルの耳に、笛の音がよみがえる。
鶴の啼く声が機音に重なって、ツルは本来の姿…鶴に戻る決心をする。

「ハーメルン」の笛吹きは、町の外から来て子どもたちを連れ去った。
「鶴によせて」では、魔物はツルの心に棲んでいる「曲げられない自分」。
そしてツルは、自分の世界へ羽ばたく。

*     *     *

この組曲の中で、私は第5曲にだけ、日本的な音階を使った。
残り6曲は、幼い頃から慣れ親しんだクラシック音楽の音階で書いている。
日本の民話を題材とした作品としては、少し珍しい書き方かもしれない。

私が描きたかったのは、心の物語だ。
雪も、春も、夜道も、日本の昔の風景でなければ…という訳ではない。
たとえばフランス人が「春」を聞いて、南仏の田園風景を思い浮かべても良い。
聞く人それぞれの心に、それぞれの風景を、私は呼び起こしたい。



                             2013.3.18


   その六  


7曲目は終曲で「空へ」。楽器はソプラノ・リコーダー。

外は雪景色。機屋の前に立つツル。
本来の姿に戻ったツルは、つばさを広げ、ふわりと風に乗る。

*     *     *

千羽織がどんなに美しくとも、鶴が羽を抜いてはいけないと、私は思う。
大空を飛ぶ鳥である鶴にとって、羽が無くてはならないものであるのと同じように、
それ無しでは、その人がその人らしく存在することが出来なくなってしまう…という
ものを、人はそれぞれ持っている。

それが何かは、当の本人にも、なかなか判らない。
自分らしい自分とは、どういうものなのかを探しながら、人は生きるのだろう。
そして、気がつくと鶴が小袖を着て機を織っていたりする。

それは仕方がない。現実には、機を織らずに暮らせる人など居はしない。
誰もが多かれ少なかれ、周囲に順応し、身に合わない努力をしながら生きている。
自分を犠牲にしてでもしなければならないことを、多くの人が抱えている。
けれどそういう中でも、自分の本質に関わることについては、可能な限りの執着を
私たちは持つべきではないか…

ドラマの都合上、主人公を女性にしなければならなかったけれど、私はこの曲を
男女を問わず、自分らしさを失わずに生きようとする全ての人に捧げたい。


                             2013.4.20
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