「堀江はるよのエッセイ」

〜日常の哲学・思ったこと考えた事〜


CDと楽譜


二十一の巻

出版

一里塚

成蹊のこと

(組曲こどものとき)






トップページにも
遊びに来て下さい!



出版


  手が滑った!
  持っていたペンが飛んで、八分どおり書けていた楽譜の余白に、
  鉛筆の粉を撒いたようにインクが散った。どうしよう…

  自筆譜の曲集を出版するようになった経緯は、前にも書いた。
  作品を曲集にして出版するについて、今の私に可能な方法を探したら、
  何もかも手作りする…というゲリラ戦にたどりついた。楽譜は作曲者本人
  である私の、手書きの「自筆譜」。文章も自分で書いて、自分で編集する。
  いま制作しているのは、6月出版予定の「マリエンヌの打ち明け話」。
  鉛筆書きの「自分用の清書」を、出版用にインクで書き直している。

  飛沫はホワイトで消そう。
  丸ごと書き直そうかとも思うけれど、この頁は細かな音符が沢山あって
  苦労した。もう一度同じように書ける自信が無い。ともかく先へ進めて、
  全部出来てから考えよう。

  楽譜浄書という職種がある。最近は作譜とも言う。
  オリジナルの譜面を元に、使用目的に応じて楽譜を作成する。
  かつては、判子や烏口といった道具を使って印刷のための版下を作ったり、
  オーケストラのスコアから写譜ペンで書き写してパート譜を作ったりした。
  ここ20年ほどの間にソフトが進化して、作曲者本人がパソコンを使って
  楽譜を作ることも多くなって、作譜という新しい呼び方が定着した。
  
  私は音楽にパソコンを使わない。便利は分かっているのだけれど、影響され
  やすい人間なので、ソフトの傾向を反映した作品を作りそうな気がする。
  操作を覚える時間も惜しくて、未だに鉛筆と消しゴムを使っている。
  最後にインクで清書をする時は、写譜ペン、普通の万年筆、2種類の水性
  ボールペンの合わせて4本を、部分によって使い分けて書く。

  私の場合、自筆譜をそのまま出版に使うので、読みやすくないと困る。
  写譜ペンだけで書いた譜面は、いかにもそれらしい雰囲気があるけれど、
  慣れない人には読みにくい。CDで私の曲を聴いて譜面を買って下さった
  アマチュア演奏家が、苦労して楽譜を「解読」なさるようでは申し訳ない。
  少しでも見やすく…と工夫して、この方法にたどりついた。


  器用なほうではないので苦労する。縦線も横線も、様々な条件をクリア
  しながら、フリーハンドで真っ直ぐに、きれいに書くのは難しい。
  一生懸命が過ぎて、ふと注意が逸れて間違えたり、もうちょっとの所で
  スラーの弧線が途切れてしまったり…etc. etc.


  そこまでして出版したいのね…と思って、可笑しくなった。
  そう、そこまでしても出版したい。私の書いた曲は演奏して楽しい曲だ。
  何とかして世の中に出して、「気の合う友だち」に出会わせてやりたい。

  手書きだけれど読みやすい楽譜に、楽しい文章と、美しい表紙をつけて、
  リコーダー&チェンバロシリーズ2「マリエンヌの打ち明け話
←クリック!
  6月に出版いたします。どうぞご期待ください!


                              2012.4.20



一里塚


  良いことがあった。
  行き止まりと見えた道の先に、ふっと視界が開けた。
  
  44歳で作曲に復帰した時、音楽界に私の席は無かった。
  例えて言えば、昨日まで茶の間で内職をしていた小母さんが、ある日突然
  鍬を持って裏庭に立って、“温泉を掘る!”と言い出したようなもの。
  自分の作った音楽に、他人様をお騒がせしてまで聞いていただく価値があると
  思っているのは、私だけだった。

  それから24年。自然界にタンポポがタンポポとして存在するように、
  私の音楽も、一つの色を持った音楽として存在する価値があるという思いを、
  何度考えても打ち消すことができなくて、CDや楽譜の出版を続けてきた。
  何かにつけて“こんなことをしていて良いのだろうか?”と考え、その度に
  “これで良いのだ”と自分に言い聞かせてきた。だって…それしか無い。
  諦めなかったのではなく、諦めようとしても諦められなかった。

  阿弥陀くじのような人生の角々で選択を迫られる度に、作曲家として、自分の
  思う方向へ道を選ぼうとしてきた。小さな選択の、数えきれない積み重ね…
  それが、ふっと私の目に見える形になった。これで良かったみたい。
  
  具体的なことは、いずれ書く機会があるだろう。
  まずは、“それでも私は作曲する!”が、シンプルに“作曲する”になった。
  肩の力が抜けたので、書くものも様子が変わるかもしれない。
  私の人生の一里塚。旅が楽しみになった。


                              2012.5.16

 成蹊のこと
(組曲こどものとき)
 
 

  思いがけず、母校成蹊の後輩からメールを頂いた。
  CD「ひらがなの手紙」の「」と「」の購入のお申し込み。

  「1」には、組曲「こどものとき」が収録されている。
  この曲に私は、小学校から中学まで通った成蹊学園での想い出を描いた。
  学園のある吉祥寺は、今はジョージ等と呼ばれて、すっかり賑やかになって
  しまったが、当時はグミの実を摘んだりの寄り道の楽しい静かな町だった。

  “そうだ、あのエッセイを一緒に送ってあげよう”と、古いコピーを探す。
  このCDを制作した1997年に、成蹊会誌に載せていただいたエッセイで、
  組曲「こどものとき」について、こまごまと書いている。

  読み返している内に、ホームページにいらして下さる皆様にもお目にかけたく
  なりました。ここにコピーいたしますので、どうぞお読みください。
  
      *     *     *     

  〜 ひらがなの手紙 〜    
                  
(成蹊会誌 1997年7月 No.85より)

  大きな木の箱のような売店に生徒が群がっている。甘いだけの菓子パンは十円
  だけれど、棒状のパンにハムをはさんだハムロールは十五円。ハムとサラダと
  両方だと二十五円もして、これを買うと後は五円の甘食しか食べられない。
  三十円の乏しい予算で育ち盛りの中学生のおなかを満足させるのは難しい。
  憧れのパンをいくつも買う軍資金豊かな子がうらやましかった。

   一人ぽっち

  買ったパンは、林園に持っていって一人で食べる。小学校のときも、土曜日は
  松林でひとりパンを食べた。作曲をするような人はやっぱりなどと言われそう
  だけれど、私は風変わりな子供だった。今で言うアダルトチャイルド、集団の
  中にいるより一人で茫然としていたい。茫然としていれば、何もかも頭の上を
  過ぎてゆく。テストも夏休みの宿題も、松や欅の幹を撫でているうちに通り過
  ぎていった。

   おもしろいお話とカキザワさん

  アダルトチャイルドが子供に返るのが登下校の道だ。二宮金次郎よろしく本を
  読みながら歩く。鰻屋をのぞく。店先で割いているのを、一匹もう一匹と見て
  いると時間のたつのを忘れる。中でも楽しかったのがカキザワさんと歩くこと
  だった。

  カキザワさんはテストで百点を取って、お父さんから、大きなチョコレートの
  塊りをもらう。おやつを貰えないときの為にに、彼は地面に穴を掘ってそれを
  埋めておく。

  お父さんは袴をはいて寄席へ行く。
  いま気がついた事だけれど、これは聞きに行くにしては変ではないだろうか?
  今まで考えもしなかったけれど、彼のお父さんは、そっちが本職だったのかも
  しれない。そうとすれば合点がゆく程、カキザワさんの話は巧みで面白かった。
  奇想天外な話に心を奪われて歩くリズミカルな足の動きは、五十三の今も足が
  覚えていて、私の音楽の大切な要素になっている。いつか、お目にかかりたい
  と思っていたのに、柿澤晃さんは亡くなってしまわれた。

   風

  武蔵野の風は、遮るものの無い平野の風だ。「風」という曲を書いたら、アル
  ペジオはないんですか、と依頼者から文句が出た。アルペジオとは分散和音。
  グノーのアベ・マリアの“ドミソドミソドミ”というあれで、そよ風の表現に
  良く使われる。

  関東平野の風はアルペジオしない。一直線に走って枝の葉がヴィヴィヴィッと
  震える。激しく吹けば枯葉と関東ロームが一緒に舞い上がり、顔にソバカスの
  ような細かい赤土の斑点が付いた。

   大きな大きな水たまり

  雨が降ると本館と理化館の前に巨大な水たまりができた。雨上がりの青空の下、
  大きな水たまっりは湖のようだ。長靴のふちから水が入らないようにソロソロ
  と歩いて、傘を杖に真ん中に立つ。波紋を描くさざなみを見ていると、自分が
  フーッと斜めに流れてゆくような気がした。目をつぶれば、私は一人ぽっちの
  船長。水辺の雑草はジャングルの大木、木の葉の船が波に揺れる。

  波紋を描く水たまりに立って、水が動いているのかもしれないけれど、自分が
  動いているのかもしれないと考える風変わりな子供に、それを表現することの
  大切さを教えてくれたのが成蹊だった。

   夕暮れ

  芸大に行って落ちこぼれた。
  美しく繊細な、無駄のない音楽を紡ぎ出す完成された作曲家を師に持って、
  ありありと見える隔たりに絶望してしまった。隔たりの判る耳の値打ちも、
  執着が才能を育てることも、その時は分からなくて自分を見限ってしまった。

  ともかく卒業して、ピアノを弾く職についた。結婚して退職、暫く家に閉じこ
  もっていた。子供が育って手の中に包みきれなくなった時には四十歳。人生は
  はや暮れ近い気がして、また作曲することがあろうとは思ってもみなかった。

  子供の頃から、私は夕暮れが好きだ。夢中で遊んでいるうちに夕方になる。
  煙るような薄闇が、自分の足元もおぼつかない闇になるのを見定めて家に帰る。
  夜はもう動かないもののように思えるのに、いつか白々と明けて朝になる。
  渚が海を隔ててまた渚につづくように、夕暮れは夜を隔てて明日に続いている。
  暮れて終わると思っていた私の人生も思いがけない朝をむかえた。私は作曲を
  始め、懐かしい世界を音で描いた。ギターの曲ができた。

  組曲「こどものとき」 一人ぽっち…おもしろいお話…風…とかげ…矛盾…
  大きな大きな水たまり…夕暮れ。

   ひらがなの手紙

  楽譜を出したら音が欲しいと言われて、CDを作った。
  人の心に届いて優しく想いを伝える音楽を作りたいという日頃の気持ちから、
  「ひらがなの手紙」と題をつけた。

  私は知らなかったけれど、創立者の中村春ニ先生が、かなもじを勧める著作を
  遺しておられるという。文字通りひらがなの「はしがき」の写しを、成蹊会の
  根岸孝彰さんから送っていただいて、私は何とも不思議な気持ちになった。
  四十七年前、講堂でボーッとリボンの端を噛んでいた新入生の私は、あの肖像
  画の人、中村春二先生のところに帰るために歩いて来たのだろうか。教育とは、
  このように遠い年月を経てなお、初めに種をまいた人の思いを伝え、実を結ぶ
  ものなのだろうか。

   吉祥寺サンロード

  「ひらがなの手紙」は梅田のササヤ書店や目白のギタルラ社を始め、幾つかの
  大きな楽器店で扱って頂けることになった。憧れの店に置かれるのは嬉しい。
  けれどそれ以上に嬉しいのは、かつての通学路、吉祥寺サンロードにある山野
  楽器の支店に置かれるようになったことだ。

  私の曲が故郷に帰る。大雨が降ると水が出た富士銀行の十字路が目に浮かぶ。
  映画教室で行ったの武蔵野映画館の前に敷き詰められた砂利が、足の裏に甦る。

                     (小・31年 旧姓・坂西)

      *     *     *     

  このエッセイから15年。
  吉祥寺サンロードの山野楽器は、その後移転して今は無い。
  当時関西に住んでいた私は、2002年に東京の生まれ育った町に戻った。
  バスで一本の吉祥寺へは、時おり出て小笹の最中を買ったりする。


                              2012.7.15                            


トップへ戻る       ←前の頁へ    次の頁へ→      目次へ
   
 更新は、毎月1日と15日を予定しております。
 およろしければ、このサイトをお友だちに御紹介下さい。
 <カタツムリの独り言> 
http://www.h-horie.com/


 
CDと楽譜