じゃなくて

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お湯・その一

お湯・そのニ


朝ごはん

子どもの職業



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お楽しみ下さい。





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ネグリジェから話が飛びました。
戻って「朝起きて」の続きです。顔を洗いましょう。

水道、どうやって水を出しますか?
水栓をひねるんじゃなくてレバーのお家もありますね。
下げると水が出る方式のレバーは、平成7年までに建てられた家に多くて、
平成13年以降のレバーは皆、上げると水が出る方式です。

これって阪神大震災の教訓なんですね。
上から落ちてきた物で水道のレバーが押し下げられて開栓状態になる。
でも誰も止めに行かれない。水はそのまま出っぱなしに…というケースが
あちこちでありました。

プラスティックの収納家具の引き出しも、ストッパーが付いたものが主流に
なったのは、あの時からではないでしょうか。当時西宮にあった我が家では、
10段のプラスティック・ケースが、一斉に引き出しを吐き出しました。


さて今回は、顔を洗うお湯のお話です。



[お湯・その一]


あの頃、よく子どもたちが口にしたジョークに、

 “すいどうのこと えいごで なんていうんだ〜?”
 “ヒネルト ジャー!”

といのがありました。

“鬼畜米英”が“カムカムエブリボディ”になってから、まだ数年しか経っていません。
一掃されていた横文字が、カラフルな文化になって、灰色の街に溢れ出していました。
少し人の多い場所へ行くと、カーキ色のズボンの太ったお尻が、私たち子供の目の高さに
来るようなアメリカ兵が、ガムを噛み噛み歩いています。日本人の社会の上に「進駐軍」
という、もう一つ別の社会があって、ピンク色の肌の彼らの間で交わされる言葉は、その
特別な…私たちには垣間見ることしか出来ない世界へのパスポートでした。

頭の上を通り過ぎる、スベリの良い、いささか動物めいて聞こえたりもする言葉を、もし
自分が話せるようになったら、映画の中みたいな彼らの暮らしにチョッピリでもあやかれ
そうな気がして、私たちは勉強とはカンケイなく「えいごをしゃべること」に憧れていた
ように思います。


いろいろ他にもありました。お八つが、鉢に山盛りのふかし芋だったりした頃です。
「タベルト ヘーデル」なんていうのもあって…薩摩芋のことです。
中でこの「ヒネルトジャー」が一番ウケたのは、実感が伴っていたからではないかしら。
戦後しばらくの間は、水道が復活していない家が結構あって、そういう家では代わりに
井戸を使っていました。

たいていは簡易型のポンプの井戸です。ギッコギッコと漕いで汲み上げた水を、洗面器や
洗い桶に溜めて使います。そういう暮らしをしている子どもが、ある日、水道に出会う…
水栓をヒネると水がジャーッとほとばしる…感動が小さな胸を満たします。

我が家には一応水道がありましたが、水圧が低くてトロトロとしか出なかったので、
学校でジャーッと出る水道に出会ったときには、感動しました。

戦前からの水栓は、鈍い金色の真鍮製で、小ぶりで蛇口も細く、今思い出してみると
アンティークな魅力があります。とっておいたら良かったかなぁ。


顔を洗うお湯のことをお話しようと思ったのですが、前置きが長くなりました。
続きは次回にいたしましょう。



友人に、他にあったっけ?…とメールしましたら、二つほど教えてくれました。
 フミャ アンガ デール (お饅頭)
 スルト ヒガ デール (マッチ)
律儀に助詞がついてるとこが、何だか微笑ましいです。


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さて、顔を洗うお湯の話をしようとしているうちに、季節はもう八月。
この暑さに恐縮ですが、ご勘弁願って湯たんぽの登場です。

小さな枕ほどの楕円形の表面に、あばら骨のような凹凸がある感じは、
痩せた人の胸に似ているところから、サザエさんの作者、長谷川町子さんの
もう一つのヒット作、「意地悪ばあさん」にも登場しています。
おぼえておられる方も多々おありでしょう。


湯たんぽをご覧になりたい方は、下記のページを開いて、
画面左側の目次の「湯たんぽ・1」をクリックして下さい。

    参考資料:私たちの文京区・すまいとどうぐ



[お湯・その二]


ヒネルとジャーで感激していたくらいですから、今のように蛇口からお湯が出たりは
しません。真冬の朝は、“スゥ”と息を吸って“エイ!”と洗面器に手を突っ込む。
凍るような水で洗った顔は、手ぬぐいで拭くとポッポとほてりました。
小さい子は嫌がって、チョイチョイと顔を濡らしただけて済まそうとしたりします。
そんなときに登場するのが「おばあちゃまの湯たんぽ」でした。


夜、おじいちゃまとおばあちゃまのお布団を敷くのは、子どもの役目でした。
八畳の座敷の真ん中に、二つのお布団を丁寧に敷きます。マットレスはありませんから
敷布団は二枚重ね。厚いリネンのシーツを皺のないようにピンと引っ張って折り込んで、
枕を置くと、冬はラクダ色の毛布を被せる前に、足元に湯たんぽを置きます。

我が家の湯たんぽは茶色の陶製でした。同じ陶製にゴムのついた捩じ込み式の栓で閉める
ようになった注ぎ口に、母がヤカンから熱いお湯を入れます。栓を閉めて、漏れないのを
確かめて、厚手のネルの袋に入れたのを、“よいしょ! よいしょ! ”と台所から運んで
くるのも、子どもの役目でした。


朝になると、二個の湯たんぽのお湯は良い具合にさめて、祖父母と子どもたちの顔を洗う
お湯になります。祖母に手伝ってもらいながら、足台に乗って洗面所の流し台の上に顔を
出し、金色のアルマイトの洗面器で顔を洗いました。

そう、洗面台も今とは違っていましたね。我が家のはタイルで出来た四角い流し台。
そこに洗面器を置いて顔を洗います。洗面器は我が家のは金色のアルマイトでしたが、
他所で見るのは銀色のアルミ製のが多かったように思います。


アルマイトは「alumite」と書いて和製英語だそうです。
ウィキペディアによれば「アルミニュムの表面を陽極として主に強酸中で水の電気分解に
より酸化させ、コーティングする技術の総称。陽極酸処理とも言う」のだそう。

“アルミのお弁当箱に梅干を入れると穴があいちゃうでしょ、
 そうならないようにしたのがアルマイトなのよ”

…というのが母から聞いた解説で、我が家のアルミ製品が早々とアルマイトに変わった
のは、そのころ父がアルミニュウムを扱う会社にに勤めていたせいかもしれません。



洗面所に掛けられた家族一人ひとりの手ぬぐいには、それぞれの名前と「上」「下」の
文字が、祖母の筆で墨で書かれていました。「上」は洗顔用、「下」は体を洗う用です。
手ぬぐいは、一人に2枚ずつ用意されていました。墨って水に流れそうな気がしますが、
大丈夫なんですね。祖父母が様々なものに書いた墨の文字は、今も家の思いがけない所に
残っていて、幼い日を偲ぶよすがになっています。

お風呂上りに使うタルカムパウダーも、二つ用意されていました。紺色の円筒形の容器の
蓋の黄色い表面の「シッカロール」という商品名の横に、「上」「下」と祖母の字で書い
てあって、こちらは「上」は上半身、「下」は腰から下に使いました。


祖母は小柄な美しい人でした。たしなみ程度の薄化粧でしたが、コティの白粉や鈴蘭の
香水を愛用していて、やわらかな優しい香りが「おばあちゃまのにおい」でした。



ついでにお風呂を沸かすお話もしたかったのですが、
なにせこの暑さ、冬まで待つことにしました。

でも、夏の朝、お風呂桶いっぱいに冷たい井戸水を汲んで、
中にプカプカと大きな西瓜を浮かべて冷やしておいて、さて暑い盛りに
切り分けて家族みんなでワイワイ言いながら食べる…なんてお話は、
今回の方が良かったかもしれませんね。




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さて、朝ごはんです。

今は我が家は朝はパン。電気の自動パン焼き器のテフロンのポットに材料を入れて、
タイマーをセットしておくと、夜中にウィーンウィーンパタパタゴトゴトと音がして
朝には好みのパンが焼きあがります。それにヨーグルトと果物、コーヒーか紅茶。

このメニューの一つ一つに、あの頃はネ…と言いたいエピソードがあります。
さあ、何からお話しましょうかしら。


[朝ごはん]


我が家で朝食にパンを食べるようになったのは、昭和30年代、私が中学生になってから
です。最初は食パンを、そのまま焼かずに食べていましたが、間もなく父がトースターを
買ってきました。小さめのハンドバッグくらいの大きさで、形も少し似ています。側面が
両側にパタンと開くようになっていて、真ん中に電熱式の焼き網が仕込んでありました。

パンは2枚同時に焼きますが、焼けるのは片面だけなので、途中で一度開けて返します。
6枚切りまでは普通に焼けますが、4枚切りの厚さになると蓋が閉まりません。それでも
センサーなんて凝ったものは付いていないので、両側に隙間が出来たまま、強引に焼いて
しまえば、ちゃんと厚切りトーストが出来ました。タイマーも付いていませんから、焼き
加減は、時々開けて様子を見ながら焼く人が判断します。好みに焼けて便利でした。


近ごろの電気器具は、何かにつけて自分の都合を言うので使いにくいです。
新しいガスコンロで魚を焼こうとしたら、5分ごとにピピッピピッと鳴って注意を促す。
ハラワタまで十分に焼きたいのに、20分ごとに勝手に火が消えるには参りました。


ヨーグルトを買うようになったのは、昭和20年代の終わりごろでしょうか。
牛乳瓶と同じタイプの、でも高さが半分くらいで底面積の広い、ズングリムックリとした
瓶に入ったのを、“新発売です”と牛乳屋さんから貰ったのを憶えています。

最初は白いのだけでしたが、しばらくするとメロンと称する薄緑色のや、オレンジ色のや
売り出されましたが、今と違って果汁何%なんて表示は求められません。そもそも食する
側の我々も、メロンもオレンジも、食べたことなんてありませんでしたから、それらしき
色と香りがついているだけで満足して、それ以上の詮索はしませんでした。


果物を毎朝食べるお家は、あの頃もあったでしょうけれど、庶民の家庭では難しかったの
ではないかしら。我が家では、リンゴやミカンはお八つでした。朝ごはんに果物を食べて
しまったら、お八つがなくなります。では他の果物は…といえば、どれももっと高級品。
どちらかと言えば病人のお見舞いとか「おつかいもの」のイメージでした。

それでも、桃やブドウや苺は、シーズンには安くなって比較的気軽に食べられましたが、
バナナは今からは想像もつかないくらい飛びぬけた高級品だったのは皆様もご存知。
到来物を待つのみで、自家用に買う人なんて滅多にいなかったのではないでしょうか。
お土産に頂いたバナナを物差しで計って分ける話が、漫画のサザエさんにありましたね。

柿は、高級品とそうでないのとに分かれていました。ほとんど四角いような、たっぷりと
大きな富有柿は、ピカピカに磨き上げられて、スターキングやデリシャスといった特別な
リンゴと一緒に果物やさんの店の奥の高いところに飾られます。私たちがお八つに買って
もらうのは、鈴のように丸い小さめの柿で、国光(コッコウ)なんていう小さめのリンゴ
と一緒に店先に置かれていました。あの丸い柿も国光も、最近は見かけません。


紅茶は、お客様にはリプトン、普段は日東紅茶でした。ブルックボンドを買うようになっ
たのは昭和30年代の後半、それから頂き物でトワイニングを知りました。
インスタントコーヒーを飲むようになったのは、昭和30年代中ごろです。
たっぷりのクリープを入れて、甘くして飲みました。

暮らしの手帖の名物編集長だった花森安治さんがコーヒーを愛飲していたというので、
さぞやミルで挽きたての豆で丁寧に淹れて…と思ったら、これがインスタントコーヒー
だったというので少々驚きましたが、あの頃インスタントコーヒーは決してコーヒーの
代用品ではなく、一つの立派な「新しいスタイルの飲み物」だったのでしょう。


和食の朝ごはんについては次回に。
羽釜でお米を炊いて、煮干でお味噌汁を作って、納豆を買いに走って…
納豆売りの少年は、私が物心つく前に居なくなったようです。
労働基準法の施行が昭和22年。ダメじゃないけど難しくなったのでしょう。



[子どもの職業]


“えっ、納豆って子どもが売ってたんですか?
  子どものショクギョウって、新聞配達だけじゃなかったんですか?”

我が家に出入りの青年が、前回の記事を読んで叫びました。
30代の彼、納豆はスーパーで買うものと思っていたそうです。
それにしても、子どものショクギョウねぇ…


田んぼでタニシを採って売る、ガード下で靴磨きをする、夜の街で花を売る、納豆売りは
朝の仕事、家の手伝いも「お手伝い」なんて甘いものではなく、畑仕事から荷運びまで、
かつては日本にも、大人並みに働いている子どもが沢山いました。

社会が豊かになるにつれて、子どもの肉体労働は減っていったようです。
労働基準法の施行も、そういう社会状況の変化があってこそ可能だったのでしょう。
以後、子どもを働かせる場合、次の条件を満たすことが求められるようになりました。


@ 非工業的事業。
A 児童の健康および福祉に有害でない。
B 労働が軽易なもの。
C 所轄労働基準監督署長の許可を受ける。
D 修学時間外に使用すること。

上記すべての条件を満たすことにより、満13歳から15歳までの児童を、
労働者として使用できるそうです。(映画出演などでは例外が認められます)

  参考資料:コラムの泉



それでも、子どもが働かなければならない状況は、なかなか無くなりませんでしたから、
この条件を満たすことのできる新聞配達は、長い間、ローティーンの大切な職業でした。
それが高校生の仕事になり大学生の仕事になったのは、子どもが働かなければ食べてゆけ
ない家庭が無くなったということなのでしょうか。

バイクが使われるようになってから、新聞オジサンが増えましたね。
就職状況が厳しくなって、新聞配達は大切な大人の職業の一つになりました。



私も中学生のときに働いた?ことがあります。
習っていた絵の先生に頼まれて、助手…といえば大したものですが、教室に習いに来る
子どもたちの見張り番。ヒョコヒョコと席を外す先生の代わりに、そこに居るだけ。
隅のテーブルには少女雑誌や美術誌や玉石混交、大好きな活字類が置いてあったので、
もっぱらそれを読みふけっていました。

“時々は絵を見てやってね”なんて注意されることもありましたが、
“ハ〜イ”と
返事だけ。3時間くらい居て、一回50円頂戴しました。

給料日には文房具屋さんに寄って、美しいレターセットなど買うのが楽しみ。
文庫本の一番薄いのが40円で買えた頃に、ほしい便箋は250円もしました。



和食の朝ごはんについて書くつもりでしたが、納豆売りから話が逸れました。
私が知っているのは、納豆売りのオバサンです。

           詳細は次回に!
 





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