じゃなくて

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3頁目

@ 納豆売りの小母さん


A 小母さん・つづき


B 朝の道

C 朝の道・つづき

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メイン頁「カタツムリの独り言」も
お楽しみ下さい。




執筆者のCD
これを書いていたときの




他にもあります。





[納豆売りの小母さん]


この「小母さん」という漢字の使い方も、最近は見ることが少なくなった気がする。
よく見るのは「オバサン」と「おばさん」。伯母さんや叔母さんと違って「小母さん」は
他人だ。でも仄かに、またはズッシリと母性を感じさせる、子どもが一人ぼっちの時に、
とっさにお母さんの代わりをしてくれそうな人が「小母さん」だったが、そういう女性が
少なくなったのではないか。最近の既婚女性には、わが子専属の顔をした人が多い。


小学校から長距離通学だった私は、朝7時に家を出た。舗装されていない土のままの道を
霜柱を踏んで歩いてゆくと、納豆売りの小母さんに会う。小母さんは、ロシアの人形の
マトリューシカに似た体つきで、何か袂の無い着物みたいなものにモンペを穿いている。
肩から、ショールダーバッグのような籠を下げていた。

最近、布で草履を作るのが流行っているけれど、あれをそのまま長く長く編んでゆくと、
厚みのある丈夫なベルトになる。そんなベルトの先に、今なら民芸品店か、ベトナムや
インドネシアの物産を置く店にありそうな、長方形の籠がついていて、その中に、経木で
三角に包んだ納豆を入れている。つやつやと茶色い顔に、大仏さんみたいなイボが一つ。
真っ黒な髪がラーメンの「細めん」のようにチリチリとカールしていた。


ふわっとやわらかなウエーブが、ブラッシングだけで良い具合に現れるようなパーマが
一般社会に出てきたのは、たぶん40年くらい前、大阪万博の少し前ごろだと思う。
このお話は、それより十数年前、つまり今から50年余り前にことだ。大人になると
大抵の女性はパーマをかけたから、女性の頭は多少の差はあれ、皆チリチリだった。


それにしても、小母さんの顔は、何か特別なものでも塗ったように艶々していた。
あれはもしかするとイソフラボンの効能ではないかしら。小母さんはきっと毎日、
売れ残りの納豆を食べていただろうから。




さて、「納豆売りの小母さん」のお話のつづきです。
今は小型トラックにマイクで“さおだけ〜”なんて売りに来ます。
トラックの背中から聞こえるのは若い女性の声だけれど、中に居るのは
仏頂面のオジサンが一人っていうの、別に珍しくも何ともありませんが、
あれは、カセットテープの無い時代の人が見たら、怪談ですね。



[小母さん・つづき]


あの頃、物を売る人たちは皆、生の自前の声でアッピールをしていた。
リヤカーをひいた竿竹売りの声は、家と家の間の細い道を、ゆっくりと流れてゆく。
自転車に乗った貝売りの小父さんの声は、“アッサリーシンジミィ〜!”と街道を
風が吹くように通っていった。納豆売りは“なっとなっと、なっと〜”
ドレミに直すと“ミッソラッラッ、ソッラ〜”と聞こえた。

でも、その納豆売りの小母さんは静かだった。呼び声を聞いた事がない。
小母さんはいつも黙って歩いていた。私が家の前の路地から出ると、すぐだったり
少し歩いてからだったり、日によって違いはあるが、たいてい小母さんと会った。


“オハヨウゴザイマス”と私は声をかける。小学2年生くらいだったろうか。
小母さんは私を見下ろして、小さな声で返事をする。小母さんの声を私は憶えていない。
小母さんは自分から話をするタイプではなかった。“あーらお嬢ちゃん”なんてお愛想を
言ったりもしない。その寡黙さが子どもなりに気になって、私は一生懸命に話しかけた。
100mほど一緒に歩いて、小母さんは右へ曲がる。私は何を話したのだったか…。
小母さんが、大人の話を聞くように真面目に聞いてくれたのだけ、憶えている。


ある朝、出がけに母がチョコレートをくれた。まだ世間には闇市の名残りみたいな商売も
あった頃で、交友関係の広い父は時々、当時の一般的水準からは懸けはなれた、普通では
手に入らない上等な食料品を持って帰ることがあった。といってもフォアグラやフカヒレ
なんていう話ではない。「昔(戦争前)みたいなハム」や「本格的な洋菓子」、この時は
それが「スイスのチョコレート」だったらしい。寒い朝に出てゆく娘に母は、大きな厚い
板チョコを割って、手の中に入るくらいにして持たせてくれた。

見ると敷石状に区切られた部分の一つ一つが、ピラミッドの上を切り取ったような形に、
四角く1cmくらい盛り上がっている。一かけ割って口に入れたら、上あごにつかえた。
ミルクとチョコレートの他に、何か香ばしい味がする。あれが何だったのか…あの日以来
ずっと考えているけれど、分からない。同じチョコレートを、ずっと探しているけれど、
まだ見つかっていない。美味しかった!!


私は路地から道へ出ながら小母さんを探した。そしてチョコレートを半分進呈した。
小母さんは小さな声でお礼を言って、口に入れた。今は珍しくないけれど、あの頃は道を
歩きながら物を食べるのは、とってもお行儀の悪いことだった。きっちり閉めた口の中で
チョコレートを味わいながら、私と小母さんは100mほど一緒に歩いた。


私はどうして、こんなにハッキリと小母さんのことを憶えているのだろう。

あの頃、たいていの大人の女性は、人に会うと小腰をかがめて、その形で話をした。
「小腰をかがめる」という言葉も普通には使われなくなってしまったが、解説すれば、
「僅かに腰を折って、少し膝を曲げ、体が小さく見えるようにする、相手へ恭順の意を
表する身振り」とでも言おうか。対する相手が自分より偉いかどうかは余り関係なく、
女性としての慎ましさと優しさを表す、一種のマナーであった気がする。

小母さんには、そういうところが無かった。大柄な体を真っ直ぐに伸ばして、ゆっくり
黙って朝の道を歩いていた。考えてみると、家族の世話を女性が一手に引き受けていた
あの頃、女性にとって朝は家を留守にし難い時間だった。夫や子どもがあれば、お釜で
御飯を炊いて朝食の支度をしなければならない。そんな時間と重なる納豆売りの仕事を、
なぜ小母さんはしていたのだろう。


小腰をかがめる女性たちの多くは、話しながら意味なく声を上げて笑った。
“きのう主人が亡くなりまして…オホホ”と言いかねないという冗談があったくらいに、
当時の女性は人と顔が会えば笑顔を作り、合の手のように笑った。あれをもし今の若い
人が見たら、不思議に感じるだろう。いや、不気味に感じるかもしれない。

女性が社会に出るようになって女性のマナーは、ずいぶんと変った。




幼い頃、毎朝聞こえてくる呼び声ががありました。

 “おーかーかーコイ! おーかーかーコイ!”

「おかか」というと東京弁の幼児語で鰹節のことですが、声の主は小学生くらいの
男の子らしい。数回繰りかえすだけで終わってしまうところをみると、物売りとは
思われません。あの子は「おかか」が食べたいのかしら?…いや、食べたいという
だけなら、外へ出て叫ぶ必要はないだろうに…と不思議でした。

謎が解けたのは、ずいぶん経ってからです。弟が中学に行って、声のする辺りに住む
岡田君という子と知り合いになりました。呼び声は、学校にに行く友だちが彼を誘う
声で、「おーかーかーコイ!」は「おーかーだークン!」でした。澄んだ声は次第に
少しガラガラしたことろのある声に変わって、やがて聞かれなくなりました。

家の外から友だちに呼びかける習慣は、もうずいぶん前に消えてしまいましたね。






書き忘れましたが、岡田君の家はバス停にして半分くらい離れた所にありました。
そんなところで子どもが叫んだ声が、我が家まで聞こえたのは、周囲の建物が木造の
平屋や二階建てばかりだったせいではないでしょうか。小さな木の箱のような家々に
反響しながら、岡田君の声は屋根の上を飛んで我が家まで届いたのでしょう。
高い子どもの声の澄んだ美しい響きが、今でも耳に残っています。



[朝の道]


家の前の路地も、そこから先の小母さんと歩いた道も、舗装のしていない土の道でした。

チンチン電車と言われた都電の通る青梅街道は、戦時中も軍用道路として使う目的があっ
たのではないでしょうか。車が揺れずにスーッと通れる、今とそれほど変わらない舗装が
されていましたが、くねくねと田圃の間を通る五日市街道は、戦争中はバスの運行を止め
られて、戦後も、荷車をひいた馬や牛が、ポタポタと糞を落としながら歩いていたりで、
舗装はアスファルトの簡易舗装。あちこち持ち上がったりヒビが入ったり、焼き芋の皮の
ようになっていました。

街道と街道を結ぶ道は、細くても舗装されていましたが、住宅街の中の道は土のまま。
雨が降ると水を含んでドロドロになるのを、「お汁粉道」と称したりしました。寒い日は
霜柱が立って、それをザックザックと踏みながら歩きます。薄いゴム底のズックの運動靴
を通して、凍った地面の冷たさが足の裏に伝わってきました。

その足の裏、低カロリーの食生活と、簡素な衣類と、エコのお手本みたいな暖房のお蔭で
出来たシモヤケが腫れて熱を持って、凍った道を歩くとジンジンとして、痛いような気持
が良いような、やっぱり痒いような…不思議な感じでした。


いつも同じ時間に家を出るので、同じ人に会います。納豆屋の小母さんの次に会うのは、
背の高い三人連れでした。着物を着てショールをした痩せた小母さんと、ダブルの背広の
プレースリーを少し黒くして野暮ったくしたようなおニイさんと、もう一人は…どんな人
だったか記憶にありません。あまり特徴の無い人だったのでしょう。

着物を着てショールをしたなんて言うと、おしゃれな人と思われそうですが、あの頃は、
全然おしゃれとは関係なく着物を着ている人が沢山いました。この小母さんもその一人で
油気の無い髪をキュッとまとめて頭の上でお団子にして、色も柄もはっきりしない着物の
肩から襟元を薄いショールで包んで、下駄をカラカラいわせながら、二人のおニイさんの
間にサンドイッチになって歩いてきます。さばさばした感じの人でした。


今だったらどうなのでしょう。あの頃は“オハヨウゴザイマス”と話しかけたら、大抵の
人が道連れになってくれました。三人連れはいつも何やら自分たちの話に忙しそうでした
が、それでも横を歩く私にも“学校はどこ?”などと声をかけてくれます。歩くのが速い
ので、私は小走りで付いてゆきました。


小学校三年のとき、五日市街道のバスが復活しました。家のごく近くから学校のある駅へ
直行できるので、私は電車通学をバスに切り替えました。朝の道でのお付き合いは終りに
なりましたが、今度はバスの中でのコミュニケーションが始まりました。
この経緯は「2000年までの私」に書いていますので、リンクでご案内いたします。

    
「おにぎり」へ飛ぶ



五日市街道を走る朝のバスには、いくつか印象深いお顔がありました。
ハンチングを被った、フランク・シナトラを更にシャープにしたような横顔の男性の
ことは、“新聞記者、実はスパイだったりして”なんて思って、今も憶えています。
銀色の髪を、鉄腕アトムの生みの親・天馬博士のように後ろになびかせた紳士は、
燃えるような目をしていて、子ども心にも、非常に強い印象を受けました。
後日、朝永博士がノーベル賞を受賞されたときに、お顔と、当時のお住まいの
場所からして、もしかしたら…と思いましたが、本当のところは分かりません。





[朝の道・つづき]


ずいぶん好きなことをしながら登校していたみたいですが、こんなことが出来たのは、
駅までの道の三分の一ほどだけです。幼い娘の長距離通学を危ぶんだ母は、同じ学校に
通う近所の男の子に、サポートを頼んでいました。一つ上のタケシちゃんと、二つ上の
トシノリちゃん。どちらも幼稚園の先輩です。私はこのどちらかの家に寄って、一緒に
連れて行ってもらうことになっていました。


トシノリちゃんには大きなお姉さんがいます。二人とも脚が長くて歩くのが速いので、
小さな私は遅れないでついてゆくのに苦労しました。

タケシちゃんにはお兄さんがいて、こちらはライオンみたいなお父さんも一緒です。
三人で猛烈な勢いで歩くので、私は半分走らないと間に合いません。息を切らして
ついて行きました。お蔭で私は今でも早足で、歩くのが苦になりません。

そんなですから、駅までの道の残りは余所見もなにも出来ません。
顔に当った風の感触と、フル回転した足の忙しさだけが記憶に残っています。


それから今で言うJRに乗るわけですが、その頃はまだ「省線」と言われていました。
1920〜43年までは、国営鉄道事業は鉄道省の所轄。その後、運輸通信省の所轄を
経て、1949年に公共企業体・日本国有鉄道になるまで、私営の「○○線」に対して
省線と呼ばれ、それから国鉄、次いで中央線、JRになったのは1987年だそうで、
ついこの間のことと思っていましたが、もう22年も経っているんですね。



あの頃、少し大きな駅のガード下には、蓑虫のようにボロボロの、衣類とも思えない物を
まとった浮浪者が、垢で赤黒くなった顔で地べたに寝転んでいました。そういう風景は
戦争の後遺症で特別なことで、もう誰もそんな惨めな生活をしなくて良くなったのだと、
私は思っていましたが、今また、住む家が無い、収入の得られない人が大勢出ています。
学校へ行けなくなる子どもも増えているそうです。

戦後の復興を経て、多くの人がお金を遣う楽しさを追い求めた時期がありました。
その間に見失ったものがありはしないか。何かが起これば浮浪者になるしかない人達と、
幾重にも守られた人達との間に、同じ人間だという意識の架け橋が無くなって来ていは
しないか。私はそれが、とても怖いです。



現在の井の頭線は当時、京王帝都線という名で、車体にKTKと書かれていました。
「コれでは、トても、コろされてしまう」と読むのだと、小学校の担任の先生から
教わりました。戦後の一時、それくらい混雑が酷かったそうです。座席に張られた
ビロード風の布は、あちこち四角く剥ぎ取られていて、これは靴磨きを仕事にする
人達が営業用に失敬していったのだ…というお話でした。

生活苦も貧乏も、すぐ手の届くところにありました。
…というより、それが皆に見えていました。

           このコーナーの次回の更新は、4月の予定です。





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