〜堀江はるよの音楽・作曲その周辺〜

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1993年



断章

♪ 
春によせて

麒麟亭

風に吹かれて




堀江はるよのコンサート

文字放送版




  1993年
断章

ピアノ
独奏

4分


1993年


















































 仕事場から20mほどの所に、阪急電車の踏切があった。
 思いがけない事情の慌しい引っ越しで、警報機の音に気が付いたのは、
 何もかもすっかり決まってしまった後だった。

    パアン〜パアン〜パアン〜パアン〜

 空いっぱいに響き渡るような音に“しまった!”と思ったが、遅かった。


 それでもやっと慣れた頃、線路際にマンションが建った。
 建設会社と阪急電鉄の間で話し合いがあったかして、
 警報機の音が少し大人しくなった。


    ぱパン〜ぱパン〜ぱパン〜ぱパン〜

     
 ♪ redo〜redo〜redo〜redo〜 (re=♭)


 佐渡おけさを歌うと、よく合う。

    ハァ〜 
redo〜redo〜redo〜redo〜
     さど〜ぉ〜えぇ〜 
redo〜redo〜redo〜redo〜


      *     *     *

 越して来たとき、私はまだ自分を「書けない人」だと思っていた。
 作曲の世界への晩いデビュー作「古典舞曲へのあこがれ」を書くまでの10年は、
 どことも知れぬ国で何とも知れぬものを探して彷徨っているような日々だった。
 私の心はいつも、何かに向かって叫んでいた。

    私はここにいるの…
      私はここにいるの…
        私はここにいるの…

 踏み切りの警報機の音が、それに重なった。
 心に深く取り込まれた連打音は、ピアノ・デュオ「古典舞曲へのあこがれ」の
 終曲のジーグのモチーフとなり、その後も私の作品のあちこちに現れる。

      *     *     *

 この曲の話に戻ろう。

 「断章」という題名は、“途絶えたメッセージ”を意味している。
 私はこの作品に、その“私はここにいるの…”と呼びかけている自分を描いた。
 曲は、暗闇から這い上がるような長いフレーズで始まり、空しく響く信号音のような
 連打が、次第に乱れ、闇に消えて終わる。

 どこともしれない国を彷徨っていた私は、自分の国を見つけた。
 空しく響くだけ…と思っていたメッセージに、応える人があるのを知った。
 もうきっと、こんなに淋しい曲を書くことは無いだろう。



春によせて

リコーダー
二重奏

11分


1993年























 若者が笛を吹く。

 ひとりぼっちは淋しい。
 こだまが、ときどきデュエットする。

 こだま?
 ほら、またきこえる。
 だんだんと近づいてくる…

 飛び出してきたのは可愛らしい女の子。
 幸せな二羽の小鳥の、デュエットが始まる。


 書き上げたのは2月14日、
 バレンタインディのための曲だ。

 舞台で演奏するときは、若い男女の奏者が望ましい。
 第一楽章では、舞台中央に青年が一人立つ。
 第二楽章の途中からセカンドが入るけれど、これは客席から見えない場所で吹く。
 楽章の終わりに、少女が舞台に走り出て、デュエットになる。

 初演のときにセカンドを吹いた小林理子さんは、その時もうお母さんだったけれど、
 少女のように可愛らしくて、小鳥のような青いドレス姿も、演奏も素敵だった。
 今は関西で小林達夫さんと共に、オカリナ合奏団で美事な演奏を聴かせている。




麒麟亭


 1993年には、その他にテナーとフルートとピアノのための「風に吹かれて」と、
 ギターソロ「はじめに」、ギター二重奏「ふたり」「なにかが」を書いた。
 どれも、その後に書いた作品へのステップになった。


 この年の9月に、私は京都上桂の青山音楽記念館バロックザールで、
 初めての「堀江はるよの作品によるコンサート」を開いた。
 二年後のつもりだった第二回は、資金不足で開けないまま現在に至っている。


 それでも、このコンサートが切かけで様々な繋がりが出来た。
 その一つが「麒麟亭」。阪神尼崎駅近く、キリンビール尼崎工場の一隅を会場に、
 1989年から96年まで毎月、ありとあらゆるジャンルの音楽家、パフォーマンス、
 落語家が出演する、面白いことなら何でもありの公演が企画実行されていた。

 会の後は、工場のご好意で別室にビールとお寿司が用意されて、親睦会になった。
 そこから生まれた新しい繋がりや企画も、ずいぶんとあったことだろう。
 入場料は100円。近隣の住人も来て、ぎゅう詰めの立ち見になることもある。
 遊び心豊かな工場長の相川一成さんと、下町のプロデューサーを自認する俳人の
 木割大雄さん、フルーティストの平岡洋子さんの、絶妙の出会いがもたらした
 素敵な異空間だった。

      *     *     *

 その木割さんがフラッと「堀江はるよの作品によるコンサート」を聞きに来られた。
 お目にかかったのは、それが二度目くらいだったかしら。

 数日後、「どのようにでも使って下さい」と原稿用紙に書いたものが届いた。
 機会がなくて、まだ一度しか使わせて頂いていない。
 少し長いけれど、ここで御覧に入れたい。





    「風変わりなコンサート」 〜右京区のホールで

  コンサートのタイトルに
  作曲家の名前がついているのはそんなに
  変なことではない
  筈だけれど
  とりあえず
  バロックザールというホールを見て
  みたいから出掛けることにした。

  プログラムを見ると
  初演 初演 初演。
  それはいい。
  それはいいのだけれど
  何故 ギターなのか。
  ロビーで顔を合わせたギタリストの
  M氏が
  「このホールはいいよ。
  たとえばマンドリンひとつでも
  よく響いていた。まるで
  ホールが楽器のようになっている…」
  と 教えてくれた。
  成程。

  なにが な・る・ほ・ど・なものか。
  中途半端に納得した自分が可笑しい。
  それより何故ギターなのだ。
  曲は ギターを奏きながら作ったのか
  いきなり
  五線紙に書いたのか。

  はじめに舞台に立ったギタリスト
  増井一友氏が
  はじめに<はじめに>という曲を
  と挨拶する。
  ふっと肩の力が抜ける。
  だがやっぱり何故ギターなのか。

  演奏が始まる。
  一曲。
  二曲。
  作曲家はギターが好きなのか。
  耳に心地良い…。
  そのせいか それとも
  昼食で摂ったビールが効いてきたのか
  半眠する。
  次のギタリストが奏く<組曲>も
  遠くで 聴きながら
  きっとギターが好きなのだ
  と思うことにした。

  ギターは不幸な楽器。
  響きが消えると
  その間が
  その一瞬に
  晴れが褻(ケ)に戻る
  だが
  この度は違う。
  響きが
  ホールの隅々にまで残っている。
  ホールが楽器になっている。
  …ということは
  このホールで演奏することを念頭において
  作曲したのであるか。
  この場でしか成り得ない音楽で
  あるのか。

  ギターデュオが面白かった。
  まぎれもなく
  語り合いになっていて
  これは仲の良い二人の男性の
  旅。
  ギターっていいものだ。
  ようやく
  素直になった自分が居る。

  リコーダーはいいものだ。
  何しろ ボクも日本人。
  笛が好き。
  ギターとの遊びもいいもンだ。
  けれど
  それもこれも
  結局は
  <空の下>の前座のように思えてくる。
  やっぱり
  笛と太鼓にゃ敵わない。
  「いいかげんに聞いて下さい」
  とか
  「ソラの下だからレミファで…」
  という小林氏も可笑しい。
  こんな曲は
  聴くだけではなく
  見るという楽しみもあって…

  音楽って 何だろう。
  音を求めて楽器を選ぶのか
  音を求めて楽器が生まれるのか
  それとも楽器があって人は音を選ぶのか。
  結局、音楽て分からないけれど
  いいものなのだ。

  メロディに本来、情はなく
  ハーモニーを得て情が湧く…
  と言った老作曲家が居た。
  そうかもしれない。
  でも少なくともボクは
  音痴のくせに
  メロディを想う。
  たとえば頭の中で
  メロディを
  図面のように描くことがある。
  だけど しかし けれど
  とにかく まるで ほんとに
  笛と太鼓には勝てぬ。

  ピアノは
  響きすぎるかと思ったけれど
  そうでもなかった。
  このホールは 変だ。
  魔の館。
  不便なところに
  建っているのも イイ。
  来て 良かった。

  ラストの
  <クラス会>は
  笑った。
  きっと 女たちのクラス会 だ
  と
  始まるなり
  そう 思った。
  テーマは“嫉妬”
  だと。
  けれどあとで考えると
  そう思った自分が
  実は嫉妬深い男であることを思い出し
  嫉妬は
  女より男の方が強いのだということを
  思い出し
  一人で苦笑した。

  洒落たアンコールがあって。

  コンサートが終わって
  友人と
  違う路で帰ろうと車を走らせ
  嵯峨野に迷いこんだ。
  ことのついでに立ち寄った祇王寺で
  一句

    涼しさや竹の欄間の影落とし

  こんなのが生まれたのも
  コンサートのおかげ。

      九月六日   木割大雄






 麒麟亭は、震災翌年の1996年、工場の移転を前に閉じられた。
 お別れ会に出席した私は、思いがけなく、テナーの畑儀文さんの歌われる
 オオ・ソレ・ミーオを、飛び入りで伴奏させて頂いた。

 出演者の中には、今はもう故人となられた方もある。中でも落語家の
 桂文紅師匠、没後に七代目笑福亭松鶴を追贈された松葉さんのお二人は、
 芸、お人なりともに、深く心に残っている。



風に吹かれて

テナー
フルート
ピアノ

歌曲

2分40秒


1993年


 麒麟亭の第48回例会「麒麟亭版・題名の無い音楽会〜作曲家は考える」の、
 プログラムの一つとした書いた。


    ♪ 風に吹かれて 歩いてきた道は 一すじ
        どこへ 私を つれてゆくのか

        ル… ルララ ル…
          ひとあし ひとあし どの ひと足も
             忘れられない 溜息の 足あと
            ル… ルララ ルララ ル…
               ああ あなたも見ていた 見ていてくれた

       風に吹かれて 歩いてきた道は 一すじ
          どこへ 私を つれてゆくのか
            行く手の夕闇に 浮かぶ木立の
                風にゆれる梢は ルラ… 慰め ♪


 テナーの声を、ピアノとフルートが追う。
 あえて言葉を省略して、楽器の「声」に意味を持たせた。

      *     *     *

 この曲を書き上げた頃だったと思う。
 知り合いのパブに行ったら、テナーの歌い手さんが来ていた。
 紹介されて、おしゃべりして、たまたま持っていたこの曲の譜面を見せた。
 良い曲だ、好きだ、自分も歌いたい、ぜひ譜面が欲しいという。
 それでは…と、後で清書が済んでからコピーを送った。


 次に会ったのは、仲間のコンサートの打ち上げの席だった。

 “堀江さんの曲、いいですねぇ、ボク歌いますよ!!”と言う。
 “ありがとう、楽しみにしています”と答えて、しばらくおしゃべりした。


 三度目に顔を合わせたのも、やはり呑む席だった。
 ビールのコップを片手に、彼は私のそばまでやってきた。

 “堀江さんの曲、いいですねぇ、ボク歌いますよ!!”
 “それって、アルコールが入ってるから、おっしゃるんじゃありません?”
 “いや、アルコールのせいじゃありません。ぜひ歌いたいんです!”
 “ほんと?…うれしいな” 私は喜んで、しばらくおしゃべりした。


 最後に会ったのは、共通の知人を囲むパーティーの席だった。
 遅れてやって来た彼は、何やら紙の束を持っていた。

 “堀江さんに会うと思った!” 
  だから、これ持ってきたんです!!”

 紙の束は、彼がたまたま手に入れた、ちょっと珍しい譜面のコピーだった。
 プレゼントだと言って、それを私に手渡すと、彼は身軽にテーブルの間を縫って
 いって自分の席に着いた。そしてその日は、それきり私のそばに来なかった。
 余興に、彼はグラスを片手に「ローレライ」を歌った。


 四度目の“ボク歌いますよ!!”は、聞いていない。
 どうやら、とても心遣いに富んだ人だったらしい。



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